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yosi0605's blog

とりとめのない備忘録です

「古典」と「現代」は敵対するのだろうか

橋下徹の文楽騒動 演劇・芸能 音楽・映画 動画

橋下大阪市長のオーケストラや文楽に対する噛みつきぶり、その他諸々を見ていて、こういう人が行政の長にいるということが悲しくなってくるのは自分だけだろうか。

彼の言動は極端ではあるけど、彼があそこまで噛み付くことができるのは「昔からあるもの=古くさい=役に立たない=ダサい=自分には関係ない」的な考えが多かれ少なかれ、ある程度多数の人の思考の無意識的前提になっていると見越しているから、または思い込んでいるからではないか。
ある意味当たらずといえども遠からずと言えるかもしれない。
でも「だから僕は改革を止めませーん」と小泉的に自己陶酔しているといずれブーメランになって寝首を掻かれると思うんだけどね。

閑話休題

さて、愚考も愚考で申し訳ないけれど「古典」と「現代」の係わりを考えるときいつも頭に浮かぶ事例がある。
ちょっと古いケースで恐縮だけど。

ビーチ・ボーイズの「レディ・リンダ」*1のイントロ・間奏・エンディングはバッハのコラール「主よ人の望みの喜びよ」(カンタータ第147番)*2だ。
ビリー・ジョエルの「ディス・ナイト」*3はまんまベートーヴェンピアノソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」第2楽章*4だ。

さらにビートルズの「ペニーレーン」*5ポール・マッカートニーがバッハの「ブランデンブルク協奏曲第二番」*6を聴かなかったら(ニュー・フィルハーモニー管弦楽団の演奏だったという)、ピッコロトランペットを生かしたあのアレンジは全くの別の演奏形態にになった可能性もあったわけだ。この場合はジョージ・マーティンという、元々はクラシック畑のプロデューサーがいたという幸運もあった。

これらは、いずれも「古典」を(当時の)「現代」に生かした素晴らしい例だと考えている。

これらから汲み取れる教訓(のようなもの)は、
「(文化)遺産としての古典は(可能なかぎり)正しく継承する」
ことで、
「あとに続く者はその遺産を享受し発展させる」
ことができる。
「古典」がしっかりと継承されなくては、それを生かした「新作」を作ることもできないというわけだ。
また「新作」(または「改作」)でなくても無意識に作品の土台になっている例は数限りなくあることだろう。
(例えば黒澤明の『椿三十郎』と近松門左衛門の『国性爺合戦』の共通点=椿を流す/染料を流す~『赤川次郎文楽入門〜人形は口ほどにものを言い』*7 p80より)

その際に考えなくてはいけないことは、古典の方が維持、継承にどうしてもお金が余分にかかるということ。
楽器も衣装も建築も現代の標準ではないので工業製品のような大量生産によるコストダウンは不可能。
演者、技術者を一人育てるのにも何倍もの手間とお金がかかる。
そこは適切な「公的補助=支え合い」がどうしても必要になってくる場面が出てくることは容易に想像できる。

バッハがキリスト教と深く結びついているように、歌舞伎、文楽、能、狂言、舞踊、落語等々は(身分社会でやれることに限りがあっても)この島国に生きた人達の嗜好(思考)と不可分に結びついている。
今自分が「聴かないから」「観ないから」で済ますのはあまりにもったいない。
まして口汚く「攻撃(口撃)」するのは自分のご先祖のお墓にペンキをぶちまけるに等しい

「公的補助」が税金を原資とする以上様々な意見があることは当然で、もちろん無尽蔵に出せるわけはない。
その点、関係者には適切な落とし所を探ってほしい。

何をするにせよ、大切なことは支出する側もされる側も互いに「敬意を払う」ことだろう。
「攻撃(口撃)」で得られる快感は、薬物使用と同じでその場限り。あとが続かない(勿論やったことはないよ)。
次はもっと強い「刺激を」求めて彷徨うことになる(←今ココ?)。

まぁ、ブライアン・ウイルソンにしてもポール・マッカートニーにしても、「バッハの闇」(笑)なんて口が裂けても言わんと思うけどね。

どんなもんでしょう。

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赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い (小学館文庫)

赤川次郎の文楽入門―人形は口ほどにものを言い (小学館文庫)