今回の陸羽東線を味わう小さな旅は、藤沢周平の『周平独言』に収録されてるエッセイ「陸羽東線」を読んでから、心の隅において、暖めていたものだった。今年になって天保期に川越藩を庄内へ、庄内藩を長岡へ、長岡藩を川越に移封しようとした「三方国替え」の幕命を撤回させるべく庄内の農民が立ちあがった『義民が駆ける』を読み、夏はこの列車旅をしようと決めていたが、富士山に行くことになったり、その後は拠ん所ない事情が重なって、夏も終わったこの時期になってようやく実現したわけだ。
エッセイ「陸羽東線」によると、藤沢周平(本名小菅留治)は作家となる以前の業界新聞記者時代、昭和46年5月、北海道の定山渓温泉での組合の総会を取材した帰り、他の記者仲間とは予定が別々になったので、帰京のため札幌から一人で東回りの汽車に乗った。
長い単調な汽車旅行だった。苫小牧に出ると海が見えてきたが、しかし空は曇って、やがて雨になった。だがその長い旅に、私は少しも飽きなかった。
<中略>
旅をしている、とそのとき私は思った。私は昼前から汽車に乗っていて、夕方までに函館につけばよかった。誰にもわずらわされることもなく、はじめてみる風景の中を通りすぎていた。誰も私のことを知らなかった。私もほかのひとのことを、知らなかった。私は一人で、窓の外の風景とつながっているだけだった。
日常の暮らしから切り離されて、気ままに好きな風景の中を移動する。それが旅だろうと思う。しかも出来れば、一人のほうがいい。そういう旅を、私はしたいのだが、これがなかなかできないのである。
先日の富士山。あれはあれで良い体験だった。しかし、こう言うと失礼な気もするが、“芋を洗うような”混み合う登山はやはり自分の好むものではない、と思う。その後は無性に“旅”をしたくなった。
さて最後に私は、今年の五月に仙台からの帰りに陸羽東線を旅した喜びを記さなければならない。パリだ、ミラノだと、簡単に海外に旅することがはやるいま、私が小牛田から新庄までの短い汽車旅行を喜んでいるのは滑稽だろうか。
そんなことはなかろうと私は思う。
高速道路を1000円でどこまでも行けるのに、日帰りで隣の県まで行くことを喜んでいるのは、「滑稽だろうか」と自分に問えば、そうではないだろうと答えたい。
紅葉にはまだ早く、時期的には中途半端だったかもしれないが、稲刈りが始まったばかりの田の続く風景はまさに「錦繍」と言うに相応しく、今年の不順な天候を乗り越えたと思う分だけ感慨もまた深い。
今回、陸羽東線の起点である小牛田でなく鳴子から始めたのは次の文に触発されたからだ。
新緑に包まれたそこは、素晴らしい土地だった。私はその土地を芭蕉が旅し、天保の庄内農民が東へ越えたことを思い出したが、それもわずかの間で、窓の外の美しい風景に見とれつづけて飽きなかったのである。(「陸羽東線」)
川北から新庄領に山越えした庄内百姓の群れは、青塚村の多一郎が予想したように、結局出羽街道を南下することが出来ずに、新庄城下から瀬見を経て、五日仙台領に入った。
この頃には、人数は三百人近くまで膨れ上がっている。簑笠、藁はばきに野宿用の鍋を背負い、その上申し合わせで禁じた脇差しを所持していたものが多く、人目を憚ってその脇差しを菰や蓆で包んで小脇に抱えているので、異様な集団にみえた。彼等を最初に発見した仙台領尿前番所の役人が、通行を阻んだのは当然だった。
このあたりは伊達家の一門、岩出山城主伊達弾正小弼の支配地である。(『義民が駆ける』)
芭蕉と尿前とくれば「蚤虱馬の尿する枕もと」だ。このあまりに有名すぎる芭蕉の句も、今回「尿前の関」跡に佇み、人の歩みを拒絶するがごとぎ深い山々に思いを馳せれば、また味わいが深まるような気がする。
藤沢周平が旅したときとは風景も、列車も、様々なものが変っているであろうし、それは仕方がないだろう。しかし、三十年近く経ってから追体験している身としては、変っていないものもあるのではないかとも考えたりしている。
来年、新緑の季節に、今度は小牛田から乗るのもいいか、と思っている。
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