yosi0605's blog

とりとめのない備忘録です

2009年の読書から(その1)『藤沢周平「海坂藩」の原郷』

本当なら昨年中に書いておくはずだったのけれど、諸々の事情で延びに延びてしまいました。一月も今週で終わりなのに。まぁ、旧暦で考えれば元日は二月十四日ですからってことで(^^;)



藤沢周平「海坂藩」の原郷 (小学館文庫)

藤沢周平「海坂藩」の原郷 (小学館文庫)



昨年は藤沢周平作品を読むのを少し遅らせて、あえて解説本というか「藤沢作品」について書かれたものを意識して読んだ。この本もその中の一冊。著者は同じ時期に藤沢周平(本名小菅留治)と山形師範学校に在籍し、同人誌時代からの付き合いに基づいて作家の人となりと作品を解説していく。しかし、それだけでなら数多ある解説本の類に埋もれてしまうところだが、自分にとっての一つの“新事実”が書かれていた故に、この本が2009年中に手に取った本の中でも印象深い一冊になった。


その“新事実”だが、今まで読んだ本に書かれていた藤沢周平の略歴では、戦後

  • 昭和二十四年(二十二歳)三月、山形師範学校卒業。四月、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任。
  • 昭和二十六年(二十四歳)三月、学校の集団検診で肺結核が発見され休職。
  • 昭和二十八年(二十六歳)二月、東京都北多摩郡東村山町の篠田病院・林間荘にに入院。手術、療養。
  • 昭和三十二年(三十歳)十一月、退院。
  • 昭和三十四年(三十二歳)八月、結婚。翌年、日本食品経済社に転職。編集に携わる。
  • 昭和三十八年(三十六歳)二月、長女誕生。十月、妻、がんで死去、二十八歳。
  • 昭和四十四年(四十二歳)一月、再婚。
  • 昭和四十八年(四十六歳)三月、「オール讀物」に『暗殺の年輪』を発表。七月、同作で直木賞受賞。

と理解していた。


これだけでもとんでもない試練の数々なのに、この年譜から落ちている事実があったことを、この『藤沢周平「海坂藩」の原郷』は教えてくれた。それは湯田川中学で教職に就いていたときに結婚の約束をした女性がいて、結納までたどり着いたところで結核が見つかり、破談になったこと。その人は「同じ黄金村のひとで、藤沢さんが村の役場で働いていたころから親しい人」だったらしい。しかし、



昭和二十八年二月、藤沢さんは病気治療のため、東京に向かうことになる。昭和二十年代の東北で、いつ治るあてもない<肺病患者>が、娘の結婚相手として嫌われたのは無理もなかった。藤沢さん自身も思うところがあったのかも知れない、相手の<家>から婚約解消が言い出されたとき、みずから身を引くようにしてそれを受け入れたという。もちろん葛藤があり、その人の涙があった。

そしてこの時期の「汝が去るは正しと言ひて地に咳くも」他二句が紹介されている。
結核を患うことがなければ、“藤沢周平”となることなく、“小菅留治”として結婚し、幸せに暮らしながら教職を全うしていたかもしれない。後年、成長した長女に、



「人生で自分の思い通りにならないことはたくさんある。だけど、あの時、思い通りにならなかったために、お母さんと一緒になって展子が生まれ、そのお母さんが亡くなって今のお母さんと知り合って今の生活があるのだから、それでよかったのだと思う」


遠藤展子著『藤沢周平 父の周辺』「人生は思い通りにならぬもの」2007年1月読了分

と語る澄み切った心境はこちらの溜まったものも洗い流してくれるようだ。それは藤沢作品の登場人物に通じていると思われる。


さて、ついでといっては失礼だが、佐高信著『司馬遼太郎藤沢周平』にも言及したい。



2007年2月読了分


この本、司馬遼太郎ファンやアンチ佐高は間違っても手に取ることはないだろうし、藤沢周平ファンからも「司馬遼太郎を批判したいがために藤沢周平を引き合いに出しているのでは?」と評判があまりよろしくない。それでもここで紹介された「読売新聞」の連載『小菅先生と教え子たち』は好ましき教師と生徒の関係がうかがえて、ここだけでも一読の価値がある。